アッという間に一週間が経ちました。
NHK大河ドラマ第二回光る君への感想をレビューしたいと思います。
その前に一話をもう一度観たら、気づくことがあったので書いておきます。
まひろが飼っていた小鳥が逃げて泣いて落ち込んでいるシーンから
まひろ「一度人の手によって飼われた鳥は外では生きていけない」
三郎「それでも逃げたのは、逃げたかったのだろう」と声をかける。
まひろは自身の事を帝の血を引く姫だと嘘をつく。
三郎は自身の事を(学が無い事を恥じ)貴族の身分である事を隠してまひろに接する。
そして三郎はお菓子をあげてまひろを慰める。
二度目のシーン
三郎が約束したお菓子をまひろに持って来ずに謝る。
まひろが三郎を「馬鹿」と言う。
三郎が馬鹿(バカ)の言葉の意味が分からずに訊くと、
まひろが「偽りを信じる愚かな者の事」を言うと説明する。
当然ここでの意味はお菓子を持ってこなかった事に対する非難の意味で、馬鹿と言った訳ではなく、
自身の帝の血を引く姫だと言う嘘を見抜けなかったことに対するものです。
この直前のシーンで三郎の従者 百舌彦とぬい(市井の町娘)と仲睦まじくしているシーンが一瞬描かれる。
以前に町に散楽(今で言う演劇)を観に行った時、三郎が夢中になっている間に百舌彦とぬいは仲良くしていた。
それらを全く気付かない三郎。そして知らぬ所で物事がどんどん進展していってしまう。
‥‥というか演目が強欲な藤原家を揶揄(やゆ)する内容であった。
にも、かかわらずそんなことをお構いなくただ演劇が楽しいという理由だけで観る三郎
今風に例えるなら「ランボー1」がベトナム帰還兵の悲惨さを訴えた映画なのに
子供がその意図に気づかずにアクションシーンだけを観て面白いというようなものでしょうか?(小学生の頃の私です)
この愚かな三郎 像は、後のしたたかに成り上がり、絶対的な権力者になる藤原道長になるための対比として描かれているのでは無いでしょうか?
上記以外にもさまざま箇所でメタファー(隠喩)を使って物事の対立や自由と不自由を表現しています。
おそらくこのドラマで「自由と不自由」、「男に振り回される女」というのは最後まで描かれるテーマではないでしょうか?
初見では気づかない点が二度観ることで、たくさんの発見があって別の意味で面白いです。
余談ですが一話ならAmazon prime videoで無料で観れます。
前置きが長くなりましたが二話の相関図から
二話は6年後の世界が描かれます。
一話と変わった点は幼少期役の俳優が成人役へとバトンタッチしました。
それぞれの人物にまつわる環境がゆっくりと動き始めましたね。
藤原 詮子(ふじわらのあきこ)を演じる吉田羊さんの演技が素晴らしい、苦悩を見事に表現していました。
円融天皇(えんゆうてんのう)役の坂東 巳之助(ばんどう・みのすけ)さんも個性的で引き込まれました。気づいたら本当にこんな人物だったんじゃないか?思っちゃいました。
天皇の側近 藤原 実資(ふじわらのさねすけ)役の秋山 竜次(あきやま・りゅうじ)さん
彼は別のお仕事で様々なステレオタイプの方を茶化しています。
それが演技にどういう影響を及ぼしているかは分かりませんが、
何も言わずとも圧倒的に存在感を放っています。なんだろう?ニヤニヤしながら彼の演技を観てしまいます。
ではここら辺で終わります。また次回お会いしましょう。